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2022/7/26【住職ブログ】いのちのつながりに気づき、自己を転換させるケアとアート。

私もとっくに老境なのだが、自ら「老狂」と名乗るこの人には敵わない。應典院再建以前から、ずっと北斗星のように仰いできた、播磨靖夫さん(たんぽぽの家)と先週対談する機会を得た。おつきあいは長いが、こんなにじっくり話ができたのはそれだけで僥倖といえる。
対談のお題は「仏教とケアの文化」だった。播磨さんは、アートとケアの接点をマージナル上に描き出してきた異能の人だが、今日の話は意外なことにお遍路の同行二人であり、道元の仏性論であった。「仏壇は尊い」という発言は、必ずしも私に合わせてくれたとは思えない。
私は、4つの小節に分けて話をした。應典院のアートは実は、ケアの光であったこと、グリーフケアとしての弔いの力と臨床宗教師のこと、死者と生者は同じ共同体を生きている、そしてコミュニティケアとしての仏教の可能性等々、共通して底流にあるのは、未来の子孫に、「よき祖先」(グッドアンセスター)と思ってもらえるために、今をどう行動すべきか、言い換えれば死者の眼差しを意識しながらどう生きるのかということであった。仏教から見たケアとは、対人関係とか社会システムだけでなく、死者や祖先を含み込んだ視野から、全てのいのちのつながりに気づき、自己の死生観や人生観、社会観の転換を意図するのではないか。播磨さんのねらいに響いたのかどうか心許ないが、久しぶりにリアルな言葉で語れたように思う。
播磨さんに憧れを感じるのは、この人がずっと現代の他者や異人とともに生きてきたからである。エイブルアートもわたぼうしも、その壮大な痕跡である。それは、近世の寺が「無縁所」として、世俗や権力とは別の異界を形成してきたことと通底する。おしゃれなアート、なんかくそくらえ。さすらう日本的芸能の原型を、私はこの人に見るのである。