
2026/8/31【住職ブログ】「私たちはどう死ぬか」—新しい死の風景と宗教の不在
お盆の最中に、日経新聞上で、「私たちはどう死ぬか」という4回シリーズがあった。日経らしい独自の切り口で、2040年、年間160万人が亡くなる「多死社会」の風景を、長期的な視点から描き出そうとしている。
第1回は、20代から始める終活。第2回は、遺体を堆肥にして自然へ還す「循環葬」。第3回は、故人の姿や声、語り口を再現する「AI故人」。いずれも、既存の葬送や供養の枠組みが揺らぐなかで、人は自らの死をどう引き受け、死者とどのような関係を結び直すのかを問うている。これまで應典院が考え続けてきた問題と近しい。
そして第4回で、ようやく臨床宗教師が登場した。病院や福祉施設で、死を前にした人の不安や苦悩に耳を傾ける宗教者の姿である。宗派の教義を説くのではなく、一人の人間として相手の話を聴く。その実践は重要であり、伝統仏教が現代社会と接する一つの回路になり得る。しかし記事の終盤では、やはり「死にゆく人に寄り添う役割をAIが担えるのか」という問いが現れ、臨床宗教師の役割さえAIとの比較にさらされている。その着地に、私はどうにも居心地のわるさを感じないわけにいかなかった。
一方、記事には「死後の生を否定しない日本人が47%」との調査結果も紹介されている。半数近くの人が、死後の何らかの世界やつながりを完全には否定していない。それにもかかわらず、その感覚が伝統宗教への関心や信頼には、必ずしも結びついていない。ここに、現在の宗教界と現実との大きな乖離があるのではないか。
人々は死後の生を考え、死者とのつながりを求め、人生の最期に意味を見いだそうとしている。しかし、その問いを語る場所として、寺院や僧侶が思い浮かばない。だからこそ、循環葬やAI故人といった新しい技術やサービスが、その空白へ入ってくる。
こうした議論は伝統宗教界の内側からは、まず出てこない。墓じまいとか、永代供養墓とか、こども食堂などの地域貢献とか――もちろん、いずれも大切な実践なのだが、しかしいずれもアクチュアルな社会との接点に、なりにくい。変化の潮流に、応答できていないのだ。
「伝統宗教が関与することではない」という意見もあるだろう。確かに盆や彼岸は習俗として盛んだし、それぞれの教団は昔ながらの伝統を大切に守っている。アクチュアリティは、そもそも領域外なのかもしれない。
だから、ダメなんだ、遅れている、と言いたいわけではない。ただ、人はなぜ死を恐れるのか。死者はどこへ行くのか。亡き人との関係は、死によって終わるのか。限りある生を、私たちはどう生き切るのか。世俗社会の側から、宗教的な問いが激しく差し出されているのに対し、我々はどのような構えを取るべきなのか。いや、それは永遠の断層として固定されるのか。
「私たちはどう死ぬか」という連載が映し出しているのは、死をめぐる新しい風景であると同時に、そこに伝統宗教の姿が十分に見えてこないというもう一つの現実を醸し出しているように思えてならない。
出典:「私たちはどう死ぬか」終活は20代から 震災・コロナ…変わる死生観
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD022DV0S6A800C2000000/
