【開催報告】藤本遼(株式会社ここにある代表取締役)/カッコよさとだらしなさのハーモニー
去る11月30日に、あそびの精舎プロジェクトのお披露目をかねて「ダイアログセッション」を開催しました。
出席者の方たちの中から、教育者(美術)、経済団体職員、まちづくりに関わる会社の代表者、僧侶の4名の方から、その感想等をご寄稿いただいています。
第4回目は藤本遼さんのご寄稿文です。藤本さんは「株式会社ここにある」代表取締役・場を編む人として、兵庫県尼崎市を中心に「尼崎ENGAWA化計画」や「カリー寺」といった場づくりの実践を重ねておられます。
第1回目、2回目、3回目はこちらからお読みいただけます→
【開催報告】柴田精一/誰もが「わたし」を見つけられる場所へ
【開催報告】永長千晴(大阪商工会議所)/「いのち輝く」万博と、あそびの精舎
【開催報告】霍野 廣由(浄土真宗本願寺派覚円寺副住職)/あそびが、境界線を溶かしていく。
あそびと余白をデザインする
今回のセッションを聞いていてハッとしたことは、「自分が救われたいという思いからはじまる」というフレーズでした。あそびながら救っていく。それこそが仏の姿なんだと。
ぼくは「株式会社ここにある」という会社をやっています。活動・事業内容としては、尼崎を中心に、地域でさまざまなプロジェクトや活動をつくっていく仕事です。それはあそびながら自分に気付きつつ、新しい環境を自分たちでつくっていくという公共へのチャレンジでもあります。
その会社を立ち上げる前から「あそびと余白をデザインする、再編集する」と言って活動してきました。しかし、数年前から会社経営をし出して、それだけでは留まらないなにものかを考えないといけなくなっているのも事実です。社員も雇っているし、来期から人件費の支出もめっちゃ増える、などと思いながらやっている部分も大きくなっていて、だから単純に「あそびながらやっていく」だけの視点でもって進めていくことはできません。ですがむしろその「あそび」と「かせぎ」のバランスの中で生きていくことこそが、ほかの誰かの参考になるのだと思って(思うようにして)やっています。とても難しいですけれど。ある種、ビジネスのロジックに完璧に回収されない宗教施設だからこそできることがあるし、お寺でないとできないこともあるのだろうという思いがとてもあります。
ビジネスの世界に浸るほど必然的にあそびが漂白されていったり、透明になっていったりするのも事実なのだろうと思います。そんな社会の中で、しかしお金もきちんと稼ぎながらぼくたちはなにをしたらよいのだろう、社会の前提となる考え方をいかにアップデートできるのだろうということを常に考えています。これはずっと問い続けていくことのひとつだなと。
ケアするまちづくり
話は少し変わりますが、最近「ケアするまちづくり」についてよく考えています。自分たちのしてきたことがまさにそうだと思っていますが、自己が他者との関わりによって変わっていくことであり、影響し合うことであり、作用し合うこと、それが「ケアするまちづくり」ということで。そうしたケアをし、ケアされていく循環をローカルでどうデザインしていくのか。ケアが必要な人が増えていく社会の中で(これまでも常にそうだったのかもしれませんが)、それはとても大事なことなのだろうと思います。
排除されがちなのは社会的なマイノリティ性もあるけれど、自分の中のマイノリティ性もあると思っています。つまり、社会的に良しとされていない内面や、ソーシャルイメージ(セルフイメージ)にそぐわないことなどは不可視化され続けていくということだと。そうした部分がいかに共有されるのか、オープンにしてよいと思えるのか、そんな場をつくるためになにができるのかを考えていきたいですし、應典院という空間はそれを可能にするのではないかと思います。コンパッションは自分への気づきと赦しからはじまるのではないか、と。
排除しないコミュニティ
「コミュニティ」になればなるほどに排除性や排他性が強まっていくのは、活動をする中で体感的に学んできたことでした。そうした中でいかに排除しない場にしていくのか。どのように入りやすい應典院になっていくのか。「洗練された應典院」の次のステージは、どのようなカッコ良さと「だらしなさ(ある種の余白)」がハーモニーしているのだろう、と非常に興味深く思っています。そこにおいて自分ができることがきっとあるかもしれない、とも。
ぼくも引き続き自分の、自分たちのアクションを続けながら、應典院さんと関われることを楽しみにしております。今後ともよろしくお願いいたします。